わたなべあきおWeb

Ne・oーactivity VOL.6 2003.11 

スローライフ 
随分前から言われてきた言葉ですけど、最近特に実感するようになりました。忙しすぎる街の生活を離れて、つい忘れがちになる自然の美しさや、四季の移ろいや、天の恵みや、人と人との心の交わりや・・・そんな世界を肌に直に感じてゆっくり生きていたい・・・ような。◆ 私の家の近所に住んでいるN氏が、10月いっぱいで転居されることとなりました。お子さん達は京都にそれぞれ残られるそうですが、ご夫婦は信州(長野か岐阜か?)へ家を購入して引っ越されるそうです。ご主人は山の散策や写真が趣味の方で、ある面理解出来るのですが、不思議に思ったのは、超お喋り好きの奥さんが・・・よくぞ・・と思ったのです。◆負け惜しみを言うわけではありませんが、私達の住んでいるこの地は、京都西北の小高い丘の上にあって、東に比叡山や東山連峰を正面に見ることが出来、市内の夜景もそれはそれは素晴らしいものです。時には宝ヶ池プリンスホテルの花火(要人歓迎か)も無料で?楽しむことが出来ます。こんな良いところなのに・・・って思うんですけどね。◆そりゃ〜確かに自慢だった竹林の坂道も開発されて、建売住宅がどんどん侵食?してきていることは事実ですが・・。それとやはり肝腎な部分は(人との心の交わり)なのかなと想像します。隣近所であっても深い部分での心の触れ合いはなかなか生まれにくいものですからね。◆自然・・田舎・・静寂・・の世界はごくたまに行くから、こころ洗われるのではないかと・・・適度な交互世界の往復が心地よいのでは・・・と思うのは私だけでしょうか?
善知識
堅苦しい言葉ですが、コレも最近実感したのです。娑婆世界・・ホントいろいろありますよね〜。いくら人生修行とは言え、辛い場面に遭うこともしばしばの私です。★仕事上も趣味の世界でも、それなりに行き違いや摩擦は起こるものです。★私はどちらかと言えばいざこざ大嫌いな方で、八方美人人間と半分以上軽蔑の眼差しで見られておりますが・・・変な抵抗を言わせてもらえば、私は八方美人=全方位外交と言うことにしています。むしろ褒め言葉に受け止めてやろうと・・・おかしいですか?★本題に戻ります。とことん嫉妬・いじめ・怨嫉の対象となる事がかなり長い間あったのです。私は「負けるが勝ち」
というかわし方も身につけていましたので、生活に影響が出るほどには考えなかったのですが・・・結局ストレスというのは、そういう無意識の中に生まれ拡大するものらしく・・ちょっと情緒不安定場面が出てくるようになってしまったのです。★そんな時同じ境遇の友がいて、一緒に立ち向かう気持ちを湧きあがらせてもらえたのです。当初は「目には目を」的な戦闘的な考えもあったのですが、次第に目の前が明るく開けるような心境になってきたのです。★ある人の講話の中で「釈尊にとって彼を殺そうとしたダイバダッタは善知識であった」という内容の話を聞いたのです。まったくその話とは比べものにならない次元の低い私事の話ではありますが、辛く泣きそうなときもあったけど、とことん精神的に苦しい場面に直面したからこそ、今の安らぎがある、こころの勝利があると思えるようになったのです。★その意味で言えば対象の彼は私の善知識となるのです。そんな安心の境地まで共に闘ってくれた友に感謝、感謝の今日この頃なのです。

青春時代(3)
〜友〜
 エレベーターの機械室は当然の事ながら、建物の最上階にあった。この薄暗い油の臭いのしみこんだ部屋が我々バイトの控え室でもあった。確か1時間運転して30分休憩だったと思う。休憩時間には読書に耽るもの、眠りこけるもの、様々であった。小さな窓から差し込む外の明かりが、まるで(あしたのジョー)の一場面のような、不思議な雰囲気を醸し出していた。逆光に浮かぶ暗い面影は、そこに集う当時の若者の「青春の光と影」を象徴しているように思えてならなかった。
 京大を目指す浪人生は、いつも{ランボ−詩集}を携帯していて、ひとに聞かすでもなく、ぶつぶつと諳んじた詩を繰り返しつぶやいていた。「あらゆるものに縛られた哀れ空しい青春よ、気むずかしさが原因で 僕は一生ふいにした。心と心が熱し合う時
世はついに来ぬものか」隣の私が覚えてしまうほどであった。挨拶代わりに私の方から「あらゆるものに・・・」と言い出すと、彼は眉を細めて苦笑した。
 広島の中国新聞の編集長を父にもつM君は大丸時代の一番の友となった。スタローンのような風貌をした彼は、何を考えているのか最初はさっぱり解らなかった。突然従業員食堂に置いてあるピアノに向かって、即興ジャズ奏者のような振る舞いに出たりした。
私にはただ無茶苦茶に鍵盤をたたいているとしか聞こえなかったのだが・・・。彼は彼でいつも「ヘンリーミラー」の本を持ち歩いていた。彼の生き方に心酔しているようであった。 
 皆個性的と言えばそうなのだが、変わり者と言った方が正解だと思う。決めつけられた社会の規範に収まりきらない、(はみだしもの)が 集まっていた。しかしそれは本当は間違いで、彼等こそが誰よりも純真で、真っ直ぐで、自分を持っていた。彼等からすれば、私は(社会の純正産物)そのものに見えて、「お前は民青か」と、全く訳の分からない言いがかりを付けられたこともあった。まあしかし、そんな彼等にもまれて、世間知らずの青二才も、徐々に風体とともに考え方も興味の対象も変貌していった。
 大丸の向かいの何かの店の二階に、「プテイ」という喫茶店があった。ここが我々のたまり場であった。ちょっと化粧は濃い目だが素敵なママがいて、夜はスナックになるようであった。今は懐かしいジュークボックスが置いてあって、当時は吉田拓郎の「結婚しようよ」カーペンターズの「スーパースター」デイープパープルの「ハイウエイスター」等々、何回も繰り返し聞いては議論ともうだうだ話ともつかない時間を過ごした。世は正にヒッピー時代。長髪にヨレヨレのジーパンスタイルが殆どであった。

〜S先生〜
 S先生は個人授業を重ねる中で、私という一人間の改造を試みてきた。少なくとも私にはそう思えた。先ず根本的に私は当たり前すぎて強烈な個性に欠けていた。彼女は言った「Pretend to be an actor」。まるで役者のように振る舞えと言うのである。オーバーなくらいに身振り手振りを使って演技しろと言うのである。
引っ込み思案で小さく固まって、時に赤面してしまう恥ずかしがり屋が徐々に内面から変化して行くのが感じられた。そして最も欠かせないことがあった。それは(ジョーク)だった。洒落っ気、おどけ、笑い・・・内面に深く沈み込んでいたこれらの種が、刺激を受けて芽生えてきたように思えた。確かに肩の力が抜けて、リラックスしたフランクな自分が現れ始めていた。
 そんなS先生がある日の夜、(後から思えばのことだが)変な行動に出た。何だったか理由は忘れたが、友人の部屋へ行って、そこでレッスンをしようと言うのである。でも友人は居ないし、二人っきりだし・・・。それでも私は気付かない。「子供だな」「おぼこいな」「惜しいことしたな」・・・。あとでみんなにしこたまからかわれた。そこまでの個人授業は私の範疇にはなかった。しかし、(ときめき)や(あこがれ)をあたためそれに酔っていたプラトニックラブ的な世界から、否応なしに本能的な世界に引きずり込まれて行く一体験となった。それにしても後々にも数々そう言う場面に出くわすのだが、誰に教えられたわけでもないが、強烈な自制心がはたらくのはどうしたものだろうか。
 次のレッスンの時、S先生は何事もなかったかのように、普段通りに授業を進めた。
そして個人レッスンの時明らかに先生としてではなく、一人の女性としての眼差しを感じた。別れの車の中で、彼女がポツリと言った。「彼(ご主人)が帰ってこない・・」きっと淋しかったんだ、心細かったんだと思うと、急にいとおしくなって、ここは慰めの言葉より(ホントはそんなこと考えてる余裕もなく)、ただ無言で肩を引き寄せ抱きしめていた。時々対向車のライトに浮かぶ彼女の横顔は、私の部屋のシルビーバルタンのポスターに似て、逆光に浮かぶ産毛がきらきらと光って眩しかった。勝ち気なやんちゃな彼女からは想像もつかない、とろけるような甘美な瞬間だった。唇に「元気を出して!」の意を込めて口付けした。彼女から習った《演技》ではなく、ごく自然に流れるようなシーンに、男としての成長(?)を認識した。数分後、彼女は自身に言い聞かせるようにキリッとした目の輝きを取り戻し、ちょっと無理な作り笑いを浮かべて、「アリガトウ!バイバイ!」と言って手を振り、例のてんとう虫のような車を発進させた。
私は路上で、しばらく立ったまま余韻に浸っていた。そして唇に手を当て、指先を見つめ直し、両の手をゆっくり丸めて歩き始めた。バスにも乗らず、賀茂川沿いにかなりの距離を歩き通して帰った。
 それまで女性に対して常に受け身であった自分が、初めてと言っていいくらい能動的に変わっていた。相手に思いを抱かせるようにするテクニックとも言えるものを、生い立ちや環境から備え持った自分に対する嫌悪感から、やっと解き放されたような気がした。コンプレックスをひとつ克服したのかも知れない。

〜別離〜
 叔母の家は不動産は失ったが、食べるのに困ると言うことはなかった。お茶、お花の先生はかなりの収入であった。そんな中叔母は生徒さんの一人と見合いをさせようと企てていた。大した用もないのに稽古場へ呼びつけたりして、さりげなく(私には見え見えだが)対面させられたりした。I・Hさんはとても綺麗な方で、私には近寄りがたい超お嬢様と写った。結婚なんてとんでもない・・・私の答えは最初から決まっていた。
それに何よりも博多の彼女からは手紙が月に2通くらい来ていた。叔母はそれを女の勘でかぎとって、別れさせようと何だかんだと口を出すようになっていた。そしてやがて決定的な時がやって来た。彼女が京都に来るというのである。何とも言えない不安がよぎった。今の自分に結婚出来る力は全くと言っていいくらい無い。果たしてどんな答えを・・・。迷いはまた次の迷いを生んでいった。
 彼女は琵琶湖畔の旅館でと連絡してきた。叔母に「年の差が・・・」とか「別れなさい!」とかさんざん悪口をぶつけられて、私はうんざりした気分で大津へと向かった。
しかし徐々に彼女に久方ぶりに会えるという事が、明るく楽しい気分へと変えていった。
 私の浮かれ気分は彼女と対面してまた反転してしまった。彼女は最初から涙目であった。宿の主はどんな関係と訝ったことだろう。風呂に入って食事の膳を前にはしてみたものの、さあ飲もう、食べようという雰囲気ではなかった。
 彼女が重い口を開いた。「結婚の話があるの」・・・長い沈黙・・・この時の私には、「待ってくれ!」とも言えないし、「あ、そう」とも言えない、まったく男としてどうしようもない情けなさを感じた。「来週お見合いをする」と次の言葉。彼女は賢いひと、私の心はお見通しだった。私の思いをきちんと把握整理して話し、最後に「・・・なんでしょう」と結論づけた。私は頷くしかなかった。そして、私は急に止めどなく涙が溢れてきてその場に泣き崩れてしまった。
 S先生の時のあの自信はなんだったんだよ、と思う。すっかり昔の間柄に戻ってしまった私は、彼女の胸の中で泣きつぶれるしかなかった。それでも長い間離れて暮らしたと言うことと、これが最後という思いが混ざり合って、ふたりは眠ることは出来なかった。そして、それが賢明なのか臆病なのか解らないが、最後の一線はどうしても越えられなかった。いや彼女のために越えてはならないと自分に言い聞かせた。その複雑な涙を手のひらでふきながら、彼女はなにを思っていたのだろう?小説やテレビドラマのように進まないシナリオに、私は男の責任と言う言葉を自分に言い聞かせていた。一時の感情で済まされる問題では無いという思いが大きなブレーキとなっていた。
しかし、この考えは後々私に惑いを生じさせることとなった。別れて数ヶ月後ハガキが一枚届いた。(この頃私は隠岐島に渡っていた・後述)。結婚報告と、またしても「どうしてそんなに苦しい方へ行くの」との一文であった。そして更に数ヶ月後、知り合いから「彼女のご主人が事故に遭い、その後音信が無く・・・」と聞かされた。そしてだめ押し的に手紙が来て、あの夜に賭けて行ったこと、無理矢理でもひとつになって欲しかったこと・・・、いつまでも彼女らしくさらっとしたためられていた。その後の自分のことは一言も記されていなかった。ああ〜、全身の力が抜けていった。

〜脱出(2)〜 
 巡り合わせというものは上手く仕組まれているものである。失意の底にある私に、大津の叔父(父の弟)から連絡が入り、話があるとのことであった。叔父は港湾建設会社の部長職にあって羽振りもよく、住まいも豪邸であった。幼少の頃から会ったこともない叔母さんやいとこ達の歓待を受けて、家庭っていいなあと素直に思った。
 話は叔父が会社を辞めて独立すること。出発点を隠岐島で始めること。私に手伝って欲しいことであった。叔父は他の兄弟とは全く異色で、豪放な性格であった。もうすでに一緒に行くと決め込んでスケジュールを聞かされた。渡りに船とは言うけれども私にもそれなりの準備というものが必要であった。しかし基本的には同意して帰った。
まず難関は叔母への説明と説得。英語の勉強の中止(=S先生との別れ)。それぞれ困難と思えた事柄も、失恋の痛手を癒すには全く環境を変えたいという思いが全てを上回った。もう女性は愛せないだろう、当分そんなことは忘れて土方的なことに汗を流そ
う。どのように説明したかは今覚えていないが、かなり強引な説得だったと思う。むしろまた(脱出)に近い行動であった。 
もう一つ慎重に片付けなければならないことがあった。それは教会で同期だったM・E子が京都に出てきていたのである。私を追ってと言えばカッコ良すぎるが・・・、私は二股なんて器用なことは出来ない。ところがE子は僕と彼女の別れを知っている存在。むしろ彼女のその後の情報を私以上に持っていた。同い年だがひとりで置いておくと壊れそうな純情な子なので、極力傷つけないように言葉を選んで「自分を大事にしろ」「いい男は他にわんさといるぞ」と、殊更明るく兄貴ぶって諭すように言った。しかしその程度の言葉で納得するくらいなら、わざわざ京都まで意を決して出ては来ないだろう。
結果的に心を鬼にして冷たい対応をとらざるを得なかった。この場面でも無責任な甘さは見せられなかった。ある面もう一人の自分との闘い、葛藤であった。そして何よりも京都を離れなければならないという具体的な事実が彼女の心を納得させた。
 真底もう女性はゴメンという心境であった。女嫌いというのじゃなくて、男として自分を磨きたい、鍛えたいという欲求が沸々と沸き上がってきていた。このまま行けばただのマザコン男じゃないかという自嘲気味に見る自分が居た。
兎にも角にも京都を離れる事が決まった。寝袋とバッグひとつの身体だけという脱出となった。それまでに関わった全ての人たちに訣別して、一から始めなければと言う大いなる決意が体内に充満していた。過去を断ち切るかのように、自分の中に一本の太い
縦線をサッと引いたような、後に引けない、失敗の許されない22歳の決断のときであった。(博多の彼女のことではその後大ショックな事件が起こったのですが、今ここではその事実を書く勇気が私にはありません。)
〜隠岐島〜
 叔父の初仕事の地は、私達の生まれ故郷の島ではなく、島後(どうご)と呼ばれる一
番大きな島であった。父の最後の任地(都万中学校)もこの島であった。西郷港に船が入る時、歴史上も「流人の島」であるだけに、都落ちしたような寂しさと、ある意味最果ての地から這い上がって行こうという決意めいたものとが入り交じって、複雑な心境に包まれた。島一番の町だけあって、上陸してみれば「ここは本当に島か」という疑問を抱くほど、賑わいのある町並み風景であった。叔母さんの実家がこの町にあり、実家の向かいの借家の二階が事務所兼宿泊所ということであった。ところが着いていきなり私は「私達が招かれざる客」であることを直感した。その家は由緒正しき家柄で(私にはどうでも良いことなのだが)いくら娘の連れ合いとはいえ、仕事の内容が内容なので広いようで狭い田舎のこと、何をしでかされるか解らないと言う強い警戒心があったようである。確かに叔父は他の兄弟とは突然変異的に異質な性格で、よく言えば豪放快活だが、酒癖が悪く好色男とくれば、誰でも一歩も二歩も退くであろう。しかし、時代性とは面白いもので、こういうタイプの事業家が業界をリードし、発展に寄与してきたことは否めない事実であった。第1ラウンドでいきなりカウンターパンチを喰らった私は、それまでの自分ならKO負けのところだが、底意地みたいなものが湧いてきて「何糞!」
と心の中で叫んでいた。しかし途中から対戦相手が変わり延々と続くデスマッチの様相を呈して行くことになる。  
 私の本質を認めてもらうには、そう時間はかからなかった。逆に親切丁寧に扱って頂いて恐縮するくらいであった。その分叔父への風当たりが強く、丁度私はその間に立って、緩衝剤のような存在であった。それはそれで良かったのかも知れない。
〜防波堤〜 
 会社勤めの頃の叔父はやはり会社というバックボオンがあっての実績であったろうがいざ自分がトップ(最終責任者)となると、勝手は違っていた。いくら右肩あがりの社会情勢とは言え、どんぶり勘定の奔放経営では先は私の目にも明らかであった。しかしここで傍観者になっては男が廃ると真剣に思った。「やれるだけやってやろうじゃないか!」
 なりふり構わぬ仕事が始まった。免許はないがダンプにも乗った。ショベルカーも使いこなした。ついには台船を引っ張る船も操縦した。潜水夫の命綱やコンプレッサーも手にした。ひたすらがむしゃらに動き回った。疲れ果てた身体を鹿児島から出稼ぎに来てくれていた人たちと(この中に永田さんもいた)焼酎を飲んで、死んだように眠った。
本土から見れば遠い異国のような地で、星空を見ては涙した。なんの涙だったんだろう?失恋回顧の涙か・・・、将来を案じての涙か・・・、母逢いたさの適わぬ夢の涙か ・・・。 
大きな工事を受注する条件として、まず小さな防波堤工事を完成させなければならなかった。陸上の作業隊は半分素人に近かった。潜水夫にも問題があった。特殊技能なので高給取りであったが、高慢、したたかな人物が多かった。私の立場を見透かして巧妙に近づく奴もいた。何だかんだと理由を付けて、潜らないことも度々であった。百戦錬磨の連中と対等に渡り合える筈はなかったが、私はなぜか冷めていた。人の心が見えていた。表面的には敗者でも、実のところ(心)では勝者という自信めいたものが固まりつつあった。女性に学んだ一時代から、今度は男のドロドロとした、生々しい精神のぶつかり合いが、私の男性部分を激しく刺激し、闘争心にも似たものを奮い立たせていった。自分は変われる!そういうくそ度胸が出来つつあった。

〜転覆事故〜
 私の意識が強くなるのに比例して、叔父との対立、意見の衝突場面が多くなっていった。私は良識ある地道に働く側の味方・代弁者となりつつあった。叔父はそれが面白くなかった。酒を飲んでは激論となり、「世捨て人みたいな奴」と罵倒されながら、私は 私で人間としての本質を追究するようになっていった。
そんな中、飯美と言う地で作業に当たっていた、起重機船が転覆沈没するという事故 が起こった。幸い潜水夫達は無事だったが、様々な厄介な問題が降りかかってくることになった。きちんとした契約書が交わされていなかったため、保障問題、責任問題等々次から次へと表面化してきた。なんの知識もない私が労働基準局へ呼び出されたり、裁判の心配もしなければならなかった。大事な船をなくした側にすれば死活問題である。
それは私にも痛いほど解った。私に残されたもの、それは「誠意」しかなかった。相手側有利のペースになるのを嫌って、叔父は私に山口県・萩の現場へ行くよう指示を出した。駆け引きや裏工作など無縁な私の存在は都合が悪かったのだろう。それも後から思えばの話である。
〜萩〜
萩市の沖のある小さな島(何島だったか?)が次の現場であった。潜水夫も他の人夫もまったく面識のない人たちばかりであった。しかし賄い宿のおばさんがとても親切な人で、我が子のように可愛がってもらった。
 ところが、ふた月も経たないうちに、またもや問題発生。給料が送られてこない!私自身は食べるだけで、それまで一銭の給料ももらっておらず、慣れっこであったが、問題は人夫達の給料である。まるで人質みたいな、険悪な雰囲気に包まれてしまった。私の必死の懇願が通じて、半月遅れで送金があった。これで現場の工事が進捗するはずもなく、ますます私の立場は追い込まれていった。
ある晩、私は布団の中で意を決していた。第三の(脱出)である。明くる日おばさんに事情を打ち明けた。彼女は私を理解してくれて、京都までの交通費を用立ててくれた。
ところが折しも山陰地方は集中豪雨の影響で山陰線は不通。仕方なくバスや他の線の列車を乗り継いで小郡まで出て、やっとの思いで山陽線の列車に乗ることが出来た。いつの脱出も同じであるが、ある種の敗北感・挫折感と明日への期待・希望とが入り交じった、複雑な混沌とした気持ちの車中であった。
〜ふたたび京都へ〜
やっとの思いで再び京都へ戻った私ではあるが、叔母のところへ行けるはずもなく、取り敢えず、大丸時代の友人H君に連絡をとった。彼は快く受け入れてくれて、しばらくの間居候させてもらうことにした。その間父と連絡をとり、叔父との談判で15万円のお金(これが約1年間の私の報酬か!?)を送ってもらい、それでアパート1室を借りることにした。東山区の日吉ヶ丘高校のすぐ近くのアパートで6畳、台所、トイレ付き、西の窓を開けると、京都タワーが正面に見える小高い丘の上に建っており、お気に入りの部屋となった。H君は相変わらずヒッピースタイルのアルバイト暮らしだったので、共同で借りようと言うことになり、奇妙な男二人の共同生活が始まった。

〜アメリカへ?〜
再び大丸へ戻った私は、懐かしい先輩や社員の人たちに温かく迎えられて、気分的にも落ち着いた自活が始まった。H君は私と違って料理上手な上に、裁縫も出来てジーパンやシャツの型直しまで器用にやってくれたりした。相変わらず音楽はミックジャガー一点張りで、隣の部屋から苦情が出る位であった。
そんな中、S先生のレッスンも再開し、もう一つ京都女子大近くのタイピスト学院へも通うこととなり(今ならパソコン教室か)、いよいよアメリカ行きモードに入っていった。東大阪で暮らしていたY君(弟の方・同じく教会脱出組)との連絡もとれて、1年後を目処に、片道切符のアメリカ行きがいよいよ実現の運びとなっていった。
この頃大丸のバイト料だけでは、家賃と授業料で消えてしまい、片道とは言え旅費が貯まる筈もなく、1年間限定で働ける高いバイト先を見つけなければならなかった。その話をH君にしたら、丁度H君の知り合いの人から、染色会社の運転手の話があって、飛びつくようにお願いした。
〜微妙な予感〜
新しいバイト先の染色会社は二条城の近くにあり、従業員30人位の白生地主体のこじんまりとした会社であった。私の仕事は、室町筋への商品の納入と、各地に点在している内職者への、商品の配達回収というものであった。
初日、なんとか業務を終えて車庫入れの時、やってしまった。後方にあった障害物に気が付かず、車のガラスを割ってしまった。車庫は検反場といわれる作業所の隣にあって、仕事をしていた無口だが長い髪を後ろに束ねた可愛い女の子が、飛び出してきて、クスリと笑みを浮かべて、破片を片付けてくれた。事務所に謝りに行く時、彼女も事情説明に一緒に行ってくれた。彼女の弁護?の甲斐あってなんとか弁償はなしと言うことでおさまった。先が思いやられる波乱のスタートとなった。
その頃私はバスで通勤していたのだが、四条大宮から歩いて会社へ向かうとき、いつも彼女が私の前をかなりの早足で歩いていた。後で解ったことだが、この会社は3回遅刻すると皆勤手当がなくなると言うことだった。厳しい!早足の原因は解ったが、次第に風にやさしくなびく彼女の長い髪に興味を抱く自分に意外な驚きを覚えた。
長い間、いわば女性不信に陥り、異性を避け無理矢理男社会の中で自分をいじめてきた反動か、そんな優しい感情が自分に戻ってきたのかと不思議な感動を覚えた。人を好きになることの悦び、ときめき、やすらぎみたいなものが、自分の中でいっぱいにふくらんでくるのを感じていた。
しかし相変わらずの消極人間である。自分から声をかけることが出来ない。そんなある日の帰り道、雨が降り出し早足になりかけたとき、後ろから急に傘が私の頭の上にさしかけられた。なんと彼女であった。また無言でにこっと笑って、バス停まで相合い傘で帰ってくれた。「傘かしてあげる」と彼女は言った。「でも・・・」「学校に置き傘あるから・・」彼女は駅近くの洋裁学校に通っていたのだ。バスに乗り込み雨に濡れた外を見ながら、窓に彼女の姿を思い浮かべて、左手の女性用の傘を思わず握りしめていた。
満員の乗客のざわめきも聞こえない位、何とも言えない温かい余韻にひたっていた。
会社にはバイトが他にも3人いて、劇団員の人とか、学生とか様々であった。仕事に なれてくる内に、バイト仲間や従業員の中にも、彼女ねらい?の競争相手がいることが 解ってきた。こりゃダメだ、夢で終わりそう・・・またまた消極的に落ち込む自分であ った。彼女はどこまで私の思いをわかってくれているのか・・・何も言わなきゃ通じる わけないのに・・・ひとり悶々とした日々を過ごした。
なんの進展もないまま、数ヶ月が過ぎ会社の忘年会が行われた。普通はバイトは呼ば れないのだが、なぜか私は参加させてもらって、嬉しいことに彼女と同じテーブルに座 ることになった。無口な私に気を遣って年配の事務のSさんが「ナベちゃん!飲みまし ょう!」とその場をほぐしてくれた。私は酒は強い方なのだがどんどんピッチがあがり、ホントに仕上がってしまった。歌も得意と言うことで素晴らしいのどを聞かせたらしい のだが、記憶にない。断片的な記憶をたどると、私は悪酔いして、帰り道彼女に介抱し てもらい、夜風で酔いを少し冷ましてから、タクシーに乗せてもらったらしいのだ。   明くる日、「きのうはどうも・・・」とおそるおそるお礼を言うと、彼女は「歌、上 手いのね、ビックリしちゃった。いつも黙ってばっかりだから」と優しいお言葉。どうやら、失望を招くほどの失態はなかったようである。
ちょっと勇気の出てきたナベちゃんは、帰り道、彼女の学校前の喫茶店で話が出来る まで進展し、映画に誘うことまで成功した。しかしふたりで初めての映画が「ゴッドファーザー」で良かったのかどうか?今でも疑問符付きである。
〜別れ道〜
私と事故は常にセットされたようなものですが、ある日、貯金に勤しむ私にとって致命的な事故が起こってしまった。いや、起こしてしまったと言うべきか・・・。事務所の横に停車させた私は車を降り、食堂で弁当を食べていた。すると事務所の方から「あ〜っ!」と悲鳴にも似た叫び声が。現場に行って私は茫然自失!なんと私の停めた車がトロトロとゆるやかな勾配を下って、車道に駐車中の高級車の真横にキッスしているではないか!その車は、いつもゴミや廃材の収集に来てくれている業者さんの車で、その日は集金日と言うことで、奥さんと二人で、しかも派手な高級車で来ておられたのである。サイドブレーキがあまかったのか?しかし過ぎたるは及ばざるがごとし・・・なんの弁解の余地もない。今度は会社が肩代わりしてくれるわけもなく、私には高すぎる弁償金が課せられることとなってしまった。あ〜・・・どうしよう・・・途方に暮れる私なのでした。
何とか分割返済をお願いして、昼のバイトに加えて、夜もデパートの模様替えのバイトに出かける日々が続いた。ところがひと月も経たない内に遂にダウン!疲労と風邪で起きあがれなくなってしまった。生憎同室のH君は実家へ帰っていた。丸二日死んだように寝袋の中で動かなかったようである。病院へ行くお金もなく、まるで衰弱した犬のように、ひたすら自分の肉体の自然治癒能力を信ずるのみ。三日目の夕方、ドアをノックする音で目が覚めた。彼女だった!「会社になんの連絡もないから・・無断欠勤するような人でもないと思うし・・・心配で・・・」六帖一間に不釣り合いなステレオセットが置いてあるだけの殺風景な部屋に、花一輪。彼女は牛乳を温めてくれて、「元気出してよ」と優しく差し出してくれた。そして窓を開けて「うわ〜、京都タワー見えるんだ〜、いい部屋ね〜」と言いながら夜風にあの長い髪を透かせている。彼女の後ろ姿を見ながら、自分の中のわだかまりが徐々に溶けていくような気がした。ぼんやりとした別れ道のひとつの方向がハッキリ見えてきたような・・・。
私は東大阪のY君の処へ出かけて行った。彼のアメリカ行きの準備は万端で、引っ越 し荷物の整理手伝いである。あまり詳しくは言わなかったが、私の計画変更を告げた。 彼は深く追求することもなく、「お互い頑張ろう!」と励ましてくれた。「記念にと言うわけでもないけど・・」と言って、彼は大切にしていたギターを私にくれた。このギターは今でも我が家の息子の部屋に存在している。(Y君は5年後帰国して現在東京で外国人相手の不動産業を営んでいる) なんとか弁償金返済も目処が立って、私は定職に就かねば・・・と言う意識が芽生えてきていた。丁度そんな時、タイピスト学院の女社長が、私のアメリカ行きの中止を知って、「渡部君、お仕事紹介しようか?あなた真面目そうだし」と、話しかけてくれた。
あまり深い内容も聞かず「ハイ!お願いします」と答えていた。腰掛け的でも良い、ちゃんとした仕事に就かなければ・・・の気持ちが強かった。でないと彼女との進展はあり得ないと思っていた。
バイトを辞める挨拶の時、私は耳を疑った。事務のSさんが、「貴方達、そんな仲に なってたのね」「えっ」「厚子さんも今月いっぱいで辞めるのよ」知らなかった・・・。 (僕ってまだ何も告白もプロポーズもしてないのに・・・)変な不安がよぎった。しか し彼女はしっかり明るかった。完全に彼女ペースであった。お母さんに会わされた。彼 女は母子家庭で小学生の頃から、仕事の母親に替わって家事を切り盛りするしっかり者 であった。姉は若くして東京に嫁いでいた。10才下の弟がいた。親子4人で辛い苦し い世の中をめげずに歩んできた何とも言えない迫力にも似たものを感じ取った。 「どうせ始めるなら何もない今からの方が良いから・・・」私の内部事情をよくご存じの説得力のあるお言葉であった。順序が逆のような気もしたが「一緒にさせて下さい」と一応男の面目を保った。
彼女23才、私24才。かぐや姫の「神田川」の世界のようなままごとみたいな生活 が始まろうとしていた。


隠岐のロシア兵の墓地 (鹿児島・永田英彦)

今日の日本海は凪いで、滑るように船が進むので船酔いの人は一人もなく、二百数十人の乗船客の大部分は畳敷きの大部屋に横になって体を休め甲板には五六人しか出て居なかった。
1500トン近くの貨客船「くにが」が境港を出港して一時間にもなろうか、遠ざかる内地がうす色に緑色に変わり水平線に隠岐の島影がはっきりして来た。
去年出稼ぎの三重県からの再三の誘いを断って隠岐にしたのは正しい選択であったろうか。離島の宿命的なデメリット、それは若しも自分の体や故郷の身内に突発的な事故が起きたら陸続きのようにはいかないという不安。その中そんな考えが消え去って、甲板からの隠岐の島を眺めているとふと平安の昔の参議篁の歌が浮かんで来た。
和田の原八十島かけて漕ぎ出でんと
     人には告げよ天の釣舟
島流しの罪人じゃないよ、隠岐の島に観光に行くのだと私の事を聞かれたら答えてくれ、釣り人たちよと追放の身の恰好悪さを誤魔化して詠んだ歌だそうだ。
船頭の手漕ぎの小舟、傍に居る監視の役人に気を遣いながら荒海を孤島に向かう心細さの人を、私は今豪華船?の甲板で思い浮かべている いや 篁だけじゃない。承久の変の後鳥羽院、建武の後醍醐天皇を始め時の権力者に逆らった反体制派の人々のどれ程の人数が罪人としてあちこちの離島に「格子なき牢獄」として送り込まれた事だろう。華々しい歴史の裏の悲しみや匂いが泌み込んだ地だからこそここを今年の出稼ぎ先に決めた自分じゃないかと改めて思い到った。
今更不安気になってどうすると自戒する。
同郷の外の六人はどうして居るだろうと畳の船室に行ってごろ寝しているのを確認して又甲板に戻った。島はもう目前だった。緑の山影を映した湾の入り口にかかっていた。
島の民謡しげさ節が聞こえて来た。二時間余りの船旅を終えて島後西郷の地に上陸した。
出迎えの港湾工事会社の人について宿舎に当てられている個人住宅まで荷物をぶら下げて歩いた。七分位の処だった。

行き交う人の表情も服装も別に何も変わっていない。先入観が現実と違い過ぎている事で気が楽になった。
翌日仕事場になる埋立予定地の海岸に連れて行かれ説明を聞いてから会社の好意で島巡りの遊覧船に乗った。
大きな島四つから成り立っている隠岐。内地近くの三つの島を島前(どうぜん)と呼び役所や賑やかな西郷町のある方は島後(どうご)と云う。一番大きな島後は周囲70キロぐらいで全部で三町四村あるそうだ。
農地もあるが大部分は漁業で観光客によって島の経済は成り立っていると云っていい。少しだけだが島前の方で放牧も行われているらしい。
四つの島とも南側はやや女性的な海岸線に対し北の韓国側は300メートルを越す絶壁が続き荒々しい岩肌は寒気さえ感ずる。
半農半漁畜産の外、企業や商社の類もなく、高校以上の学校もなく、観光とりわけ悲運天皇を祀る神社や物語と闘牛を島起こしの中心にしたら活路が開けるだろうと思った。
扨、仕事は岬の突端から湾曲したこちら側の端まで水深四五メートルの処に赤布つけたロープを引き、大きな台船に栗石を岸壁でショベルカーで積み込み、漁船に曳航させ、そのロープの位置で台船のバランスを考えながら左右から海中に落として行く、つまり堤防になる場所の海底に雑石の山脈を作る事から始める。三四ヶ月も同じ事を繰り返してからコンクリートの分厚い壁をその石積の上に並べて連ねるという工法であった。気を遣う作業ではないが海の上の事だから身の安全が第一と皆で気を張って行った。
仕事を始めて二週間ばかり経った日曜日の午後、海上からの島の姿は見たが島内も知りたいと皆で歩いて近くの山に登った。島全体がお皿を伏せた様な形なので高くもない中心的な処に登ると360度のパノラマが楽しめる。当然の事だが丸い水平線を一望出来る。こんな眺めはやはりこの島でないと体験出来ないと改めて思う。
山を下り始めてどれ位歩いたろうか。櫻の木が五六本枝を伸ばしてその下にひっそりと墓石が二十ばかり並んでいる所に出た。みんな同じ長四角の人の高さぐらい、近寄って前面の碑文を見てびっくりした。文字が外国のものだ。
「おい、この墓は日本人のものじゃないよ」と私が皆に云うと
「あ、年寄りの女の人があっちから来るよ、聞いてみよう」
一人の男が走り出した。皆それに続いた、山菜採りの帰りらしく手に持ったビニール袋に青いものが透けて見える。我々と老婦人は小道に腰を下ろした。そして老婦人は語り出した。その話に皆静かに聞き入った。
「あれはロシアの兵隊さんの墓ですよ、百年ばかり前、このずっと北の方の沖で日本の軍艦とロシアの軍艦と大そうな戦争をしたんですね」
「はあ、バルチック艦隊の事だ」と独りが云った。
「戦争が終わってどのくらい経った後だったろうか、この下の磯部にたくさんの死体が流れ着いてな、村中の人でここに埋めてやったそうじゃ。名前も何も判らんものだから小石を墓石にしていたらな、大分後になってロシアの役人さんが来て色々書いたものと金を差し出したそうな、それでこんな立派な墓石になったらしい」
この婦人の話でよく判った。
「今も盆正月前は村の人が集まって墓の廻りの草を刈ったり花をあげたりしているんだよ」
と云う。
戦前はロシア大使館から感謝の意味で墓守料として幾らかお金が頂けたとも聞いた。
碑文は何と書いてあるんだろうか、読める人は居ない。若し名前が一人記してあるとすればどんな調査があの時期出来ただろうか、しかも死体は大分傷んで居た筈だ。と不思議で仕方なかった。
しかし、珍しいいい話を聞いた。村人の敵国兵に対する心からの行為に感動を覚えた。
時代はどんなに変わり国々に、人々の幸福を求むべきどんな憲法が出来ても今日もまだ宗教や国単位のエゴによって敵意を燃やし殺し合いは続いているではないか、為政者や軍の上層の人の為に引き起こされる血なまぐさい悲しい戦争でも、一般民衆には敵味方の区別のない愛が失われてはいない事の見本だと感じさせられた。隠岐の島の忘れられない散策の日だった。 昭和47年5月頃の話

永田さんとは隠岐島でわずか数ヶ月間のお付き合いであった。二十歳そこそこの若輩者に対して、一個の人間として向き合って下さった。飯場での鹿児島の人たちの会話は、方言と云うよりはもう外国語という感じだった。まるで喧嘩でもしているかのような・・。そこでおぼえた焼酎の味は今でも忘れられない。あれから何十年も経た今日まで、まるで親子兄弟のような文通や、ご旅行の時など拙宅にお泊まり頂くなど、嬉しいお付き合いが続いている。永田さんは出稼ぎという形をとっておられたが、まれに見る文化人・知識人と私は尊敬申し上げている。そして今回「出稼ぎの詩」という立派な随筆集を送って頂いた。その原稿段階での何編かをこの私の誌にお寄せいただいたことは光栄である。近い将来必ず鹿児島を訪れたいと念願しているところです。(秋夫)

編集後記
 何とか最終号に辿り着いたと言う感じです。皆様には  
勝手極まりなく、一方的に拙い文章を送りつけて、さぞ   
ご迷惑ではなかったかと・・・。反省しております。    
どうぞお許しください。                 
 僕が関わりを持たせて頂いた方々の中で、独断で僕が              
「このひと!」と思っている方々に送らせて頂きました。直接そんなにお話したことがない方もいらっしゃいます。でも私にとっては大切な大切な想い出の方々なのです。僕の心のアルバムに何ページかをしっかり占めておられますからね。あなたの記憶には薄いかも知れませんけど・・・。                        
たくさんの方から投稿文や、載せられないけど、お手紙やメールを頂きました。本当に有り難うございました。また僕のが恥ずかしくなるような、素晴らしい詩集や随筆集も送って頂きました。もっともっと勉強して、体験を積んで、自然な感じの詩やエッセイが書けたらなあ・・・と思う今日この頃です。
最後ですので、ちょっとお喋り感覚で書きますね。吉本隆明が言ってるんですけど、人間の性格って、一歳未満で殆ど決まっちゃうらしいですよ。母親からお乳をもらうその時期に、無意識の核みたいなものが出来てしまうそうです。勿論その時期の家庭環境とかも。次が幼少期そして前思春期らしいです。でも90%異常は1才未満だそうです。
三島由紀夫は生まれて一週間で母親から離され、お祖母さんに抱え込まれてしまった。
太宰治は生まれてすぐに乳母に生育を預けられてしまった。結果、自決,自殺という結末を迎えてしまう。中間説明がないので飛躍的に思われるかも知れませんが、僕もそう言う観点から自分や兄のことを考えてみると、確かにそうかなと思える部分があるんですよね。
ところで皆さん、渡部の奴やたらと女性のことばかり書いてるな・・とお思いではありませんか?これはある意味意図的ですのでね、ご了解下さい。自分の幼少、少年、青年期を語るのに、母親を筆頭にその時代その時代の女性の存在なくして、語り得ないのですよね。ハッキリ言ってマザーコンプレックスの固まりのような僕ですから、性格分析の上からも、否応なしに備わった僕の本質(特質)ですから・・・。それを避けて通らずに正面から受けて書いてみようと思ったのです。自己弁護的に言えば、「いつまでも持ち続けたい少年の心・輝き」かな。大の親友の言ってくれる「ガキのような**」は僕の宝物と思うようになりました。心理学をやっておられる方、僕はきっと格好のサンプル人間だと思いますよ。
さて、冒頭の「善知識」に関してですが、人間、楽ばかりを求めていてはダメだと思いました。対人関係にしろ、職務上のトラブルにしろ、逃げてはダメですね。自分の正義を信じて、ハッキリ言葉を発して、意思表示して、そこまでが出来ずに内に籠もってしまうと、どんどん精神的に落ち込んじゃいますね。
最後に一言。僕はたとえ「ひとり」の人でも、信じてくれる、応援してくれる、もっと言えば愛してくれる人がいれば、それが一番幸せ者だと。飾った言葉で表面的なだけの愛情表現をどれだけ多くの人にされても、それはむしろ空しい事だと。皆さん魅力的に生きましょう!いくつになっても人に魅力を感じさせない自分の人生って、貧困過ぎると思いません?カッコ付けじゃなくて、自分のライフスタイルそのものが、コトバや仕草やファッションや何よりも心が・・・、魅力的であるのが一番素晴らしいと思うのですが・・・。
それでは、又の機会に・・・。詩集かエッセイ集をお届け出来ますように!
皆さん健康で明るく、良い人生を!

(Update : 2004/02/06)