わたなべあきおWeb

背景の記憶(73)

 chu chu chu・・・と唇を尖がらせて、先生は人差し指を立てて横に振った。どうもRとLの発音が微妙に違うらしい。ちょっと薄暗い喫茶店の一番奥のテーブルだった。

 事の始まりは、授業が終わって先生に声をかけられてからだった。「ちょっと時間ある?OK?」「ハイ、大丈夫ですけど」「車で」と言われて路駐の車までついて行くと、先生の車はスバルのてんとう虫の形をした軽だった。

 見るからにちっちゃいその車も、乗ってみると意外に広く、長い脚の先生でもそれほど窮屈そうではなかった。先生はごく自然な感じで「just a・・・」と言いながら、垂れ下がっていた二本のコードをショートさせた。するとエンジンが起動した。ビックリしている僕に、先生は得意そうにウインクをした。

 喫茶店に入ると、ブロンズの長い髪でスレンダーな美人先生と、野暮ったいジーパンスタイルの僕との取り合わせに、客のみんなが注目した。先生はそんなことはお構いなしで、さっさと奥の席へ僕を導いた。

 ホットコーヒーを注文すると、先生は手提げ袋の中から漢字ドリルを取り出した。見ると<小学四年生用>と書いてあった。キョトンとしている僕に、先生は「これで私に漢字を教えて・・・でも、英語しか使っちゃだめよ」と英語で言われた。

 奇妙な個人授業が、この夜から始まった。クラスのメンバーはK大の大学院生とK大生、K女子大生、看護婦、女子高生、そして僕の6人だった。そんな中で、どうして僕にお声がかかったのか知る由もなかったが、薄ぼんやりと理解したのは、随分と経ってからだった。

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(Update : 2010/09/27)